ズレの反復 〜私的『ジョーカー』評〜

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 はい、観てきました映画『ジョーカー』3回目です。今Twitter上での約束通り感想記事を書いているわけですが、ここであらかじめネタバレというかストーリーの核心部分に触れざるを得ないということで注意を発しておきます。未見の方は今すぐ画面を閉じるなりなんなりしてください、僕からのお願いです。

 『ジョーカー』すでに興行成績がヒットと言っていいレベルで伸びていることもあって、ネットの感想があふれまくっていますね。その中の一つとして僕の意見をここで言わせてもらうなら、これは「ズレの反復」の映画ではないかということになります。どういうことか、順を追って説明していきます。

 まず冒頭のシーン、主人公であるアーサーが涙を流しながら無理矢理鏡を前に笑顔を演じてみせる印象的な場面ですが、ここの時点でズレのテーマは明示されています。つまり内面と外面のズレ、荒んだ彼の内面とそれでも仕事では笑顔を演じなければならないということのズレです。

 続いて家で病身の母とマレーの番組を見ながら心の中で彼と共演する妄想に耽るシーンにおいても同様のズレが見て取れるでしょう。その直後仕事場でストリートキッズに暴行された痕が痛々しく残る痩せこけた身体を映す場面が続くのを見ても内と外の対比構造は明確です。

 彼がそもそも脳神経の損傷で意に反して突然笑い出す病気にかかっているという設定も周囲の無理解を生むことが容易に想像できるという意味でズレを孕んでいます。

 加えて小人症の同僚を仕事仲間に合わせて笑う振りをしつつ、まさにその演技性によってアーサーという男の歪さがありありと浮かび上がるシーンなどこのズレの構図は次第に複雑さを増しながら反復されます。

 自衛のために身につけた銃が小児病棟でのトラブルで失職の原因となりのちに続く地下鉄殺人で彼が決定的に道を踏み外す、文字通り「引き金」となる展開を経てこの内と外の対比関係は描写における現実と虚構の区別さえ曖昧にし、事態はいよいよ混迷を極めていきます。おそらく今作においてもっとも印象深いシーンの一つであろう洗面所の舞踏の場面、殺人という圧倒的な現実を前にしてなお何かを演じることを、虚構に耽ることをやめられないアーサーという人物の業のようなものが垣間見えるのが象徴的です。

 そして地下鉄殺人が彼の意図とは離れ階級闘争の象徴と化すことで、ズレの反復はゴッサムという都市全体を飲み込んでいくことになるわけです。

 連続性の喪失というテーマはアーサーの出生を巡るドラマにおいてより明確になります。かつて一度は期待したウェイン家との関係など存在せず、さらには自らが養子であり母との血の繋がりさえなかったとアーサーが確信する展開は、のちにそれすらも誤りであることが示唆されることも含め、ズレの図式を踏襲しています。

 さらには隣人ソフィーとの関係が結局はアーサーの妄想だったこと、アーサーが想像上の父とまで崇めたマレーにバカにされた挙句番組に呼び出され勝手に裏切られたと思い込んだこと、これらのズレの反復は彼をこの物語における最大のズレ、つまりは「アーサー・フレックがジョーカーになる」という飛躍に導いていくことになるのです。 

 ジョーカーとは何者か、今作においてそれは主観と客観の関係を断ち切った狂人として描かれます。つまりは彼自身がズレそのものになったわけです。もはや何の意味もなくなったテレビ番組出演の夢を叶えたジョーカーは司会者であるマレーを銃殺した後カメラを掴み画面を前にこう語ります「これが人生」と。

 時を同じくして起こった貧困者の暴動は観客の目にあたかもジョーカーのアジテーションによって引き起こされたかのように映ります。本当は両者は無関係でありズレを孕んだものであるのにもかかわらず。暴動の参加者たちによってあたかもキリストのように祭り上げられたジョーカーは自らの血でもって笑顔を演じてみせるのです。両者が決して交わることが無いまま、空虚な一体感だけを残して。この展開はまさしく彼が独り笑いとともに語る「理解不能なジョーク」そのものなのではないでしょうか。

 この断絶に満ちた物語をもはや共感といった言葉で語ることはできない、僕はそう考えます。